簡単な話

 この世の全ての物質は、単純な元素と元素の組み合わせで構成されている。
 その元素は、電子と陽電子の配分と言う情報によって性質が決定され、さらに素粒子クォークと言う単位にまで分解可能だ。
 また、20世紀初頭、幾多の物理学者の尽力により、E=MC2−−つまり物質とエネルギーは等価の存在であり、エネルギーが重合集積した結果が物質であると判明した。
 この研究は後に、空間その物が低位のエネルギーポテンシャルを持つ存在である事を突き止め、「エネルギー=物質」とは「空間」が集中した結果−−海流がぶつかって渦を巻き、そこに密度の高い海水の領域が発生するように、「空間」と「エネルギー=物質」の差異は単にその“密度の違い”に他ならないと言う発見に結びつく。
 つまり、この世に存在する全ての物理学的な観測可能な事物は、すべからくエネルギーの変容と集積によって発生する。全てはある特定の条件下でエネルギーポテンシャルが増大、重合、集積、多様化を繰り返した結果に過ぎないのだ。
 
 
 一方、物理世界を構築するもう一方の要素が「エントロピー」−−情報である。*1どんなエネルギーの状態も、極論すれば「そのエネルギーの状態を規定する情報」無しには成立し得ない訳だ。
 単純に言い切って良いならば、水素原子2個とヘリウム原子1個のエネルギーは同一だ。*2しかし、そこには「水素原子2個」と「ヘリウム原子1個」と言う“情報の規定”が存在し、この情報の差異によって、両者の相違点は発生する。
 
 
 物理世界において、“情報の規定”を得ないエネルギーはカオス状態となって拡散し、空間と同位のエネルギーポテンシャルへと平準化して行く。
 一方でエネルギー状態を獲得できない情報は、物理世界においては揮発し、その情報を保ち得ることができない。
 両者は分かち得ない、物理的二元論のパートナーであり、物理世界における証明の範囲では、互いは互い無しには自己を恒常化することのできない不可分の二者であった。
 
 
 二者というのでピンと来た人もいるだろう。
 そうだ。
 不可分の二者、と言う証明は過去のものと成りつつある。
 いやさ、自己の恒常化の際に両者共が互いを必要とすると言う過程自体は、未だに崩壊した訳ではない。物質とエネルギーの状態の多様化には、未だにエネルギーとエントロピーの結びつきが必要だ。
 しかし、それはエネルギーが低位ポテンシャルで平準化した状態が「空間」であり、重合集積し、渦を巻いて高位ポテンシャルな状態が「エネルギー=物質」であるのと同様に、低位があるから高位が認識できると言う問題に過ぎないのだ。*3
 すなわち、「エネルギー」とは、「エントロピー」が渦を巻き、重合集積した結果であると人類の物理学は証明しつつある。
 
 
 これは熱力学第二法則が、マクロレベルでは否定されかかっていることを表す。
 元来、沸騰した牛乳の実験*4に見られるように、熱力学第二法則には観測上、幾多の難点があると表明する研究者は多い。
 ある種、熱力学第二法則は黙示録的な宗教観や短命な人間の人生に対する無常観の物理学的論証のため、強烈にアピールする材料とされている点が否めない。
 しかし、宇宙がそれ以前の「無」と言う秩序状態からビックバンと言う現象によって誕生し、より多様化し情報的に複雑化してカオス状態に近づいて行くのなら−−熱力学第二法則的に、エネルギーがエントロピーに変換されて行くのなら−−、結局は最終的に極大化した情報の集積によって再び宇宙がより高位のエネルギー段階へと移行すべく、ビッグバン−−より正確にはそれに類似した現象−−を引き起こすのはあり得ないとは言い切れない訳だ。
 
 
 そもそも人間が絶対視し、それは覆せないと考える時間という存在は、重力で容易くたわむ宇宙の構成要素の一角に過ぎない。我々はよく誤解するが、人間は時間という河に流される存在ではなく、時間という河を下っていく能力を獲得した存在なのである。*5
 その能力は、我々が進化の過程で寿命や苦痛と言う能力を獲得したのと同様、個々人には覆しようも、免れようもないものだ。しかし、物理的には我々が三次元的存在である時点で獲得された性質であり、時間が我々を運んでいるのでは決してなく、我々が時間の中を進んでいるのだと言うことは、紛れもない事実である。
 言わんや、その時間の流れによって事象を規定した熱力学第二法則は、その意味では運命論と大差はない。むしろ物理学と言うよりもよりミクロな事象のための概念だと言えるだろう。*6
 
 
 であるとするなら、物事は簡単だ。
 万物の根源が情報と言う因子であるならば、その因子の概念を把握することを通して、様々な事象の理解に務めることができると言う訳だ。
 ちなみに面白いのは、インド哲学老荘思想、気学や易学がこれとほぼ同じダイナミズムに宗教的概念を通じて接近していることである。彼ら古代人が想像力と言う器具を通じて、現代人の実験施設や計算と同様の概念にまで到達していたことは非常に興味深い。
 であるならば、現代人の我々も数千年前の先人と同様に、高価な実験器具や施設、算式や理論無しでも、それと同じ境地に至ることができる筈である。何せ、人間それその物という次元に立てば、我らと彼らに差異などないのだから。
 だが、この簡単な話。
 いざ実践するとなれば、おそらくカイラス山に昇るよりも大変な事だろう。*7
 
 

*1:厳密に言えば、「エントロピー」と「情報」は同一の概念ではない。ここでは単純に、便宜上の記述として使用している。

*2:無論、厳密には全然違う。

*3:ここでの高位、低位とは、エネルギー状態のことで、どちらかが良い、悪いという話ではない。善悪や好悪の概念は、人間が作り出した虚構である。

*4:熱を加える前の牛乳の状態は、鍋の中で平穏である。その水面にはエネルギーが加わるまでなんの変化もない秩序化された状態だ。だが、熱を加えることで対流が発生し、牛乳の表面にはさざ波が立つ。さらに沸騰し始めること表面は泡立ち、熱を加える前の秩序化された状態は崩壊し、カオス状態へと移行する。しかしさらに熱を加えると、牛乳の沸騰による泡立ちは規則性を帯び始め、無数の気泡が一定の法則に従って出現・消散を繰り返すエネルギー高位の秩序化状態へと移行するのだ。これにより、秩序化された状態とカオス状態は不可逆的な変化ではなく、段階的な入れ替えであるとする実験。

*5:厳密には、人間と言うより三次元時空の実体。四次元に至るともはや時間の概念は我々の高さ程度の概念になり、二次元ではそもそも時間の概念が根元的には意味をなさない。

*6:誤解のないように述べるなら、熱力学第二法則は上で述べたような全宇宙規模、兆年単位のスパンでもない限り、確かに多くの局面で機能する。

*7:ヒマラヤ山脈の一角。チベットに頂上が存在する、ヒンドゥーチベット双方の聖山。ヒンドゥーの主神の一柱シヴァ神の顕現であるとされる。