物語の原型

 「オリジナリティなど、シェイクスピアの時代に滅び去った」
 遙か昔に読んだある作品に登場した文だが、同時に今では私の口癖でもある。
 この言葉に表現されるように、今さら完全なるオリジナリティ−−独自性という言葉は空しい存在なのではないかと私は思う。


 そもシェイクスピアの時代にまで下るまでもなく、人類の歴史は推測される範囲で約7千年。それ以前のもはや考古学的に実証不可能な、文字や遺跡すらない遙かな過去から、人々は“物語る”と言う行為を行ってきた。
 その行為は、それこそ何千万回、何千億回となく繰り返されてきた物だろう。
 我々人類はその全てがミトコンドリア・イヴ*1の子孫である訳だが、おそらくはそのイヴの時点でさえ、既に無数の物語が“物語られ”ていたに違いない。そうした物語は、人類の拡散に従ってそれぞれの民族に伝えられ、伝えられた物語はその民族の中でさらに変化し、要素を付け加えられ、そして交易や交流と共に伝播していった。
 神話や伝説、民間伝承や童歌、賛歌、詩歌などは、そうした“物語の原型”とも呼ぶべき存在と言えるだろう。
 言ってしまえば、人類全体が「面白い」と感じる「物語」の基本ラインは、この時点で既に完成しているのである。後は語り手の力量や状況に合わせた工夫の領域に他ならない訳だ。


 だが、「面白い」と感じる「物語」のラインが完成しているからと言って、そこで“物語る”と言うことの意味が終わった訳でもない。
 何故なら、如何に面白かろうと同じような物語を聞き続ければ、人は“飽きる”からだ。この“飽き”を回避するために、「物語」は常に“新鮮さ”という要素を必要不可欠としてきた訳である。
 しかし、これが難しい。
 はっきり言ってしまえば、人が「面白い」と感じる要素は、さっきも言ったように既に出揃っている。逆を言えばこれから離れると言うことは、「面白くない」のだ。
 だが、そのラインに沿うだけでは、ありがちであるとして“飽き”られる−−詰まらないと認識される訳だ。


 言うなれば現在、“物語る”という行為はこの“物語の原型”の中にある「面白い」と言う要素と、その中に含まれない“新鮮さ”とをどうブレンドするかにかかっていると言っていいだろう。*2
 オリジナリティという言葉にこだわる時、どうも人はこの事を忘れる傾向がある。
 先に述べたように、全く新しい概念など存在しない。
 いやより正確には存在するが、それをその概念を産み出した人間以外が、「面白い」と感じる状況はマレである。よしんば時代が下り、その概念が多くの人に受け入れられ、「面白い」と認識されるようになったならば、それは新たな“物語の原型”として確立したと言う事だ。*3
 つまり「完全にオリジナル」と言う「物語」が仮にあるとしたら、それは「面白くない」のだと言うことを覚悟せねばならない−−いや、当人にとってはこの上なく面白いのかも知れないが。


 さて、ここまで来ればお分かりだろう。
 「物語」はウィスキーのような物だ。*4幾つもの「面白い」をブレンドし、そこに少しの“新鮮さ”−−誤解を恐れず言うなら「面白くない」−−を混入することで、人を酔わせる美酒として完成する。
 「面白い」だけでは“飽き”られる。
 だが、“新鮮さ”だけでは「面白くない」のだ。
 全く新しい酒など、美味くも何ともない。そこに伝統の深みを加えてこそ、極上の美酒となると言う訳である。
 
 


 

*1:現存する人類全ての、母系によってたどれる“最初の母”。体細胞内のミトコンドリアの遺伝子を確認することで、存在が実証された「人類全体の共通の先祖」である。

*2:別のバリエーションとしては、“物語の原型”の中にある要素をクロスオーバーさせるという手もあるが、これも既に結構使われていて、原型化していると考えて良い。

*3:多くの人々が、自分こそがそうした新たな“物語の原型”を確立するのだと意気込むが、何故か往々にして最初はそれが「面白い」と認識され得る筈がないと言う事を失念する。今までにない物を産み出すと言うことは、自らを他の者が認識する既知の世界から放逐する行為に他ならないことを、どうして忘れるのだろう?

*4:日本で飲まれるウィスキーの多くは、モルト原酒とグレーン原酒をブレンドして作られる。このモルト原酒とグレーン原酒自体も、普通は複数種類の原酒をブレンドして作る。ウィスキー研究家の稲富孝一氏は「味噌汁にたとえるならば、ダシはグレーン、味噌はモルトということになるんです」と語っている。