備中楪城(びっちゅうゆずりはじょう)

 さてその上で、過日にも書きましたルーツとやらですが、本日はよく言われる方のルーツ−−先祖の話でもしようかと思います。ちょうど、「なんでタイトルが備中楪城なのか?」と質問が匿名であった次第でもありますし。


 さて私の三輪の名は実は、母方の曾祖母の名字です。
 この三輪家は岡山の神代の地に家がありまして、現在は11代目まで続いております。
 でその三輪家が神代に居を構えたのは亨保7年(1722年〉の事。現在の阿哲郡哲多町宮河内は川本の三輪家より分家の形で参ったとの事。


 でこの川本の三輪家が、なかなかに面白い。
 系図書によると、戦国時代に備中松山(現在の高梁市)を中心に勢力を誇った三村氏と言うのがありまして、この一族の三村元範(楪城城主)が毛利勢に敗れ、当時6才であったその一子元丸が乳母らと共に逃走し、川本で隠遁生活を始めたのが初代だと言うのです。
 そして毛利方の追討を避けるために、母方の姓の三輪姓を名乗った、と。
 以降、数代に渡って毛利氏の追討を避けるために川本に隠れ潜んだのだそうで。
 つまり、川本の三輪家とは三村氏と言う戦国武将の生き残りの家である訳ですな。
 この件を知るまで、はっきり言って平氏の落人だの隠れ潜んで再起の時を待つ戦国大名の末裔だのは、小説の中でのみ触れるお話−−別世界の物語でありました。それが知ってみればそう言う経歴な訳で……。
 何とも言えんなぁ、と。


 そしてこの三村元範の居城、備中楪城がこのblogの由来となった訳です。
 ちなみにこの三村氏。はっきり言ってマイナー大名に分類されますが、調べてみるとそこそこに活躍もしてたりします。
 その発祥は常陸国新治郡三村郷−−この里の名が名字になった訳ですね。その後、信濃国東筑摩郡洗馬郷を経て、鎌倉時代に備中成羽の地頭職に補任されて移住しました。
 その後、勢力を徐々に拡大させ、『太平記』には元弘の乱に際して後醍醐天皇のもとへ馳せ参じた諸将(新見・成合・那須・三村)の1つとして数えられています。また、九州で再起した足利尊氏に三村能実が従ったとの記述もあるようです。
 時代が下って14世紀頃には三村信濃守が成羽荘を横領、続いて水内北荘を掌中とし、16世紀初頭には大内勢の一員として尼子氏と戦っています。*1尼子氏の備中進出を阻んだのは、三村氏の功が大きかったようですね。


 以降、三村氏は大内氏の中で勢力を拡大する毛利氏に同調。その援護射撃も兼ねる形で、備中統一を目指し始めます。そして1561年には松山城の庄氏を打ち倒し、出雲へと敗走せしめる事によって実質的に備中を支配。その後、勢いに乗って備前に勢力を拡大しようとしますが、そこで宇喜多直家配下である遠藤又次郎により当時の当主である三村家親*2が暗殺されると言う事件が起きました。
 この暗殺は、一説には日本初の鉄砲を使用した暗殺であると言われています。
 いずれにせよ、この時期が三村氏の絶頂だったようで、一時は岡山のほとんどの地域を勢力下に置いた三村氏は、急速に凋落して行くのです。


 三村家親の跡を継いだ三村元親*3は、復讐に燃えて宇喜多氏を攻撃しますが、その状況はひいき目に見ても一進一退。何度か追い詰める局面もありましたが、大局的には功を奏しませんでした。そしてそうこうしている間に、時代はいつの間にか変わっていたのです。*4
 中国地方が未だ諸勢力の争いに明け暮れている中、京を中心とした地域はすでに織田信長の勢力下にありました。そして織田信長はついにその矛先を中国地方へと向けたのです。
 そんな中、毛利氏は終わらぬ宇喜多氏との争いに見切りをつけ、講和を計ります。織田と戦うためには、宇喜多氏と戦っている余裕はなかったのです。
 しかし三村氏としてはこの講和は納得できる物ではありません。父を殺された三村元親はこれに反発し、逆に織田信長と同盟を結びました。そして道理や情はどうあれ、これが三村氏の命取りとなったのです。
 三村氏は結果として毛利、宇喜多の両面攻撃に遭い、織田氏に救援を求めるも時は1575年−−すなわち長篠の戦いの頃。おまけに本願寺との決戦も同年であり、とても救援の余裕はありませんでした。*5


 そして猿掛城や鶴首城、楪城などの城を相次いで失って行き、最後には松山城、鬼身山城を失って三村氏は滅亡を遂げる事となります。*6
 この際、松山城への撤退戦において三村元範は戦死しています。生年不詳なため、その享年も不明ですが、すぐ上の兄である三村実親が1556年生まれである事を考えると、どんなに年かさでも数え年19歳であった事でしょう。*7


 さて、この三村元範の室が、戸構城主加賀守三輪半左衛門の娘であったとされます。この半左衛門の系譜の方はまた日を改めて書くとしましょう。
 
 

*1:大内勢についたのは。大内義興の元にいた足利義尹が上洛を計画した際のことらしい。足利の元に参じた武将の中に「三村備中守宗親」の名がある。

*2:この人が楪城城主三村元範の父親に当たる。

*3:三村元範の兄。元範は三男に当たる。ただし異説もあり、その係累ははっきりしない。もしかすると弟の可能性もある。

*4:面白い物で、この頃にあの山中鹿之助と戦っています。

*5:どうも宇喜多氏の主家である浦上氏と織田氏の同盟があったため、こちらで対処できるだろうと踏んでいた節もあります。

*6:なお、元親には当時8歳の勝法師という子が合ったそうですが、これは小早川隆景によってその利発さを警戒され、殺されたそうで。

*7:ちなみにそれから考えると、私の先祖である元丸は、三村元範の数え年13歳以前の子供という事になります。……この時代珍しくありませんが、思わず(;´Д`)ハァハァできる年齢でつね。